全ての行事が盛況のうちに終了しました。
参加いただきました皆様、ありがとうございました。
実行委員会の皆様お疲れ様でした。
松阪市立第三小学校は、平成23年(2011年)に創立百周年を迎えます。 私たちは、この記念すべき年に記念事業を行うべく実行委員会を立ち上げ、記念式典及び記念誌編纂を企画し、実行します。
2011年10月2日日曜日
2011年10月1日土曜日
2011年9月30日金曜日
第三小創立百周年記念行事まで、”あと二日”
第三小創立百周年記念式典・記念イベントまで
あと二日となりました。
10月2日(日)の記念式典・イベントの日程
記念式典(松阪市民文化会館)
9時00分 受付
9時30分 開会 (※内容は記念式典の項に)
11時30分 閉会
記念イベント(第三小運動場)
11時30分 ~ 15時
15時 餅まき
15時30分 風船とばし
さんさん祭(第三小校舎内)
12時30分 ~
※それぞれの詳しい内容は記念式典の項に掲載してあります。
あと二日となりました。
10月2日(日)の記念式典・イベントの日程
記念式典(松阪市民文化会館)
9時00分 受付
9時30分 開会 (※内容は記念式典の項に)
11時30分 閉会
記念イベント(第三小運動場)
11時30分 ~ 15時
15時 餅まき
15時30分 風船とばし
さんさん祭(第三小校舎内)
12時30分 ~
※それぞれの詳しい内容は記念式典の項に掲載してあります。
2011年9月13日火曜日
記念誌の発行と希望者への販売
10月2日(日)の記念式典や記念イベントを記念しに掲載するために、
記念誌の発行は平成24年1月末になります。
10月末まで、購入予約を受け付けます。
ご購入希望の方は第三小学校までご連絡ください。購入申込書をお送りします。
購入申込書に必要事項をお書きのうえ、代金前払いでお申込ください。
第三小学校の連絡先
松阪市立第三小学校 (橋本)
〒515-0816 松阪市西之庄町150
(TEL 0598-21-0311)
(FAX 0598-21-8053)
記念誌の発行は平成24年1月末になります。
10月末まで、購入予約を受け付けます。
ご購入希望の方は第三小学校までご連絡ください。購入申込書をお送りします。
購入申込書に必要事項をお書きのうえ、代金前払いでお申込ください。
第三小学校の連絡先
松阪市立第三小学校 (橋本)
〒515-0816 松阪市西之庄町150
(TEL 0598-21-0311)
(FAX 0598-21-8053)
2011年9月8日木曜日
2011年8月15日月曜日
2011年7月11日月曜日
2011年7月8日金曜日
第11回 記念誌、事業部会より
7月5日(火) 第11回 記念誌、事業部会より
報告事項
①来賓への第一次案内を5月下旬に発送した。
②航空写真を7月8日(金)に撮る。
③横断幕を校舎に設置、幟旗を20旗購入した。
④ポスターやビラを作成する予定です。
⑤実行委員用のTシャツを作成する予定です。
協議事項
①記念式典の進行について
・おおまかに開会式、学年部発表、殿中ブラスバンド発表、スライドショー、閉会式
②イベント
・地域からの出店ブース(約10店)
・実行委員会のブース…うどん・ぜんざい、さかなつかみ、餅なげ
③記念誌のゲラ刷りの校正
・各年代にわかれて校正
報告事項
①来賓への第一次案内を5月下旬に発送した。
②航空写真を7月8日(金)に撮る。
③横断幕を校舎に設置、幟旗を20旗購入した。
④ポスターやビラを作成する予定です。
⑤実行委員用のTシャツを作成する予定です。
協議事項
①記念式典の進行について
・おおまかに開会式、学年部発表、殿中ブラスバンド発表、スライドショー、閉会式
②イベント
・地域からの出店ブース(約10店)
・実行委員会のブース…うどん・ぜんざい、さかなつかみ、餅なげ
③記念誌のゲラ刷りの校正
・各年代にわかれて校正
2011年5月24日火曜日
第一次案内を発送
5月23日から25日にかけて、ご来賓の皆様に百周年記念式典の第一次案内を発送しました。
また、山中光茂市長、小林壽一教育長、名越信太郎橋西連合自治会長には、西川実行委員長と
学校長が直接お会いして第一次案内を手渡しました。
また、山中光茂市長、小林壽一教育長、名越信太郎橋西連合自治会長には、西川実行委員長と
学校長が直接お会いして第一次案内を手渡しました。
2011年5月17日火曜日
2011年4月25日月曜日
卒業生からの投稿紹介4
卒業生 Mさんからの東京オリンピックの思い出に関する投稿を紹介させていただきます。
「東京オリンピックの思い出」
この度、創立百周年記念誌発行に伴い「東京オリンピックの思い出」をテーマに原稿執筆の依頼をいただき、私が第三小学校を巣立ったのは、昭和四十年三月当時の私にはオリンピックがどう映っていたのかと、卒業文集を久しぶりに開いてみました。
「柔道でヘーシンクが勝ったのは体力の差だろう」―。文集の「東京オリンピック」と題した十一人の級友と語り合うコーナーで、六年生の私はこう発言しています。この一節を読み、白黒テレビの最前列を陣取って、試合の行方に一喜一憂したことが、走馬灯のようによみがえりました。
アントン・ヘーシンクは無差別級で金メダルをとったオランダの柔道家です。少年の私は、柔道の金メダルは日本がとるものと信じて、テレビに向かって声援を送っていました。が、まさかの敗退。
日本人との体格の違いに悔しさを感じるとともに、世界は広いと憧れのような気持ちを抱いたことも覚えています。
よぉし、僕も―と、友達と一緒になって校庭の鉄棒で、体操競技の着地の決めポーズを何度も真似たことも鮮明に思い出しました。
文集には、東京でのオリンピックを「もう一度ぐらいぼくが生きている間にくればいいんだ」とも記しています。私だけでなく、一緒に応援した友に大きな夢や希望を与えてくれたオリンピック。再び日本で開催されれば、当時の私が抱いた夢を多くの子どもたちに与えてくれるに違いありません。
今後とも第三小学校は地域のシンボルとして、学校と地域の絆を確かめ合いながら新たな百年に向けた礎を築いていただきたいと願っています。
「東京オリンピックの思い出」
この度、創立百周年記念誌発行に伴い「東京オリンピックの思い出」をテーマに原稿執筆の依頼をいただき、私が第三小学校を巣立ったのは、昭和四十年三月当時の私にはオリンピックがどう映っていたのかと、卒業文集を久しぶりに開いてみました。
「柔道でヘーシンクが勝ったのは体力の差だろう」―。文集の「東京オリンピック」と題した十一人の級友と語り合うコーナーで、六年生の私はこう発言しています。この一節を読み、白黒テレビの最前列を陣取って、試合の行方に一喜一憂したことが、走馬灯のようによみがえりました。
アントン・ヘーシンクは無差別級で金メダルをとったオランダの柔道家です。少年の私は、柔道の金メダルは日本がとるものと信じて、テレビに向かって声援を送っていました。が、まさかの敗退。
日本人との体格の違いに悔しさを感じるとともに、世界は広いと憧れのような気持ちを抱いたことも覚えています。
よぉし、僕も―と、友達と一緒になって校庭の鉄棒で、体操競技の着地の決めポーズを何度も真似たことも鮮明に思い出しました。
文集には、東京でのオリンピックを「もう一度ぐらいぼくが生きている間にくればいいんだ」とも記しています。私だけでなく、一緒に応援した友に大きな夢や希望を与えてくれたオリンピック。再び日本で開催されれば、当時の私が抱いた夢を多くの子どもたちに与えてくれるに違いありません。
今後とも第三小学校は地域のシンボルとして、学校と地域の絆を確かめ合いながら新たな百年に向けた礎を築いていただきたいと願っています。
卒業生からの投稿紹介3
卒業生 Yさんからの大阪万博の思い出に関する投稿を紹介させていただきます。
昭和の一大イベントでしたね(^^)
「大阪万博の思い出」
「エキスポ'70」それは初めて聞く言葉だった。
あちこちで、桜を型取ったシンボルマークを目にするようになり、いたる所で♪こんにちはぁ~こんにちはぁ~♪と三波春夫が歌う声が響いていた。
ちょうど5年生だった私は、幸運なことに「社会見学」の行事に乗っかり、万博会場へと向かうことができた。
「アメリカ館」「ソ連館」などの人気パビリオンは、どこも長蛇の列で入れずじまい。
どうにか「オーストラリア館」にたどりつくことができた。展示内容などは全く覚えていないが、閉園後、四日市市市内に常設されると聞いたときは少々がっかりしたものだ。そんな私が一番期待していたのは「動く舗道」であった。マンガの中の未来都市に夢膨らませていた私は、どうしても「動く舗道」を体験してみたいと思っていた。恐る恐る踏み出した第一歩は、思い切りよろけてあえなく終了。
次は「太陽の塔」。奇抜なデザインと色鮮やかさに感動するも、数日後、「太陽の塔」に、何者かが籠城し大事件となった。たまたま、その時期に会場へ行った父が撮影してきた写真には、犯人の姿がはっきり写っており何枚もの写真が我が家に残されていた。
そんなこんなで、「万博の思い出」といえば「太陽の塔籠城事件」となったのである。
昭和の一大イベントでしたね(^^)
「大阪万博の思い出」
「エキスポ'70」それは初めて聞く言葉だった。
あちこちで、桜を型取ったシンボルマークを目にするようになり、いたる所で♪こんにちはぁ~こんにちはぁ~♪と三波春夫が歌う声が響いていた。
ちょうど5年生だった私は、幸運なことに「社会見学」の行事に乗っかり、万博会場へと向かうことができた。
「アメリカ館」「ソ連館」などの人気パビリオンは、どこも長蛇の列で入れずじまい。
どうにか「オーストラリア館」にたどりつくことができた。展示内容などは全く覚えていないが、閉園後、四日市市市内に常設されると聞いたときは少々がっかりしたものだ。そんな私が一番期待していたのは「動く舗道」であった。マンガの中の未来都市に夢膨らませていた私は、どうしても「動く舗道」を体験してみたいと思っていた。恐る恐る踏み出した第一歩は、思い切りよろけてあえなく終了。
次は「太陽の塔」。奇抜なデザインと色鮮やかさに感動するも、数日後、「太陽の塔」に、何者かが籠城し大事件となった。たまたま、その時期に会場へ行った父が撮影してきた写真には、犯人の姿がはっきり写っており何枚もの写真が我が家に残されていた。
そんなこんなで、「万博の思い出」といえば「太陽の塔籠城事件」となったのである。
2011年4月9日土曜日
卒業生からの投稿紹介2
記念誌編纂部会に寄せられた原稿を紹介させていただきます。
私も同年代(?)と思われ、全てに共感しました。
遊びの心
「今日は何して遊ぼかなぁ」、授業中も遊ぶことばかり考え過ごした小学生時代が懐かしい。
当時はゲーム機やパソコンなどは無く、携帯電話に至っては、特撮SF番組のヒーローが持つ通信機そのものであり、子供心に憧れた空想世界の代物であった。
そんな時代、学校から帰るとすぐに外へ飛び出して、同級生や近所の子供たちと一緒に田んぼや空き地、川や池、長屋の通路などあらゆる場所を遊び場にして日が暮れるまで夢中に遊んだ。
定番のかくれんぼから鬼ごっこ、缶蹴りや草野球などはもちろん、網を持って蝶やトンボを追いかけ、川に入って魚を捕り、空き地で土山や落とし穴を作り、雨が降れば泥遊びをする、とにかく与えられた環境の中、思いつくまま自分たちの出来ることをして遊んだ。
時にはいたずらをして苦手な近所のお婆さんに怒られることもあったが、とにかく何をしても楽しくてしようがなかった。
世の中全体が経済的に決して豊かと言える時代ではなかったが、子供達の遊びの心はとても豊かであり、今になって思うと遊び仲間で形成された子供社会の中で規律や道徳などについて学ぶことも数多くあった。
そんな時代に育ったのは幸せなことであり、当時培われた遊びの心は自分の財産として今なおライフスタイルのベースとなっており、日々その心を大切にして過ごしている。
2011年4月2日土曜日
全国小学校の百周年事業
学校において周年事業は付き物ですが、最近は、ホームページを立ち上げ周年事業の様子を広く公開しているケースは少なくありません。
卒業生にとって周年事業は、縁遠くなった母校とのつながりを再確認できる場であり、どこも盛り上がっているようです。
延岡市南方小学校創立100周年事業
安里・安謝小学校100周年事業通信
陸別小学校100周年記念協賛会
千駄木小学校100周年実行委員会
鹿児島市立清水小学校創立100周年記念事業準備委員会
2011年3月31日木曜日
松阪第三小学校 校歌
みなさん、校歌覚えてますか?
校歌
一、
朝日かがやく伊勢海
四五百(よいほ)の森の緑濃く
古い歴史の松阪に
ああ若草は今もえて
のびる第三すこやかに
二、
霞たなびく堀坂(ほっさか)の
青い起き伏し光る雲
学びいそしむあけくれを
ああ吹きわたる風の歌
のびよよい子と呼んでいる
三、
青い海山 広い天
世界をむすぶこの心
平和をになうこの体
ああはればれとのびていく
われら第三よい子たち
卒業生からの投稿紹介
百周年記念誌制作に取り組む記念誌部会では、多数の卒業生に依頼し、当時の思い出の原稿を提供いただいています。
ここでは、記念誌掲載に先行して、これらの原稿の一部をご披露させていただきます。(このブログでは投稿者の実名は控えさせていただきます。記念誌では、ご承認を頂いた方は実名記載する予定です。)
学習・行事の思い出
昭和三十五年入学 O 様
創立百周年迎えられましたことをお慶び申し上げます。
記念誌への投稿のお話を頂き、半世紀振りに当時の綻びた記憶とアルバムを頼りに回想することとなりました。
以下に、入学から卒業までの思い出深い出来事を思うがままに羅列させていただきました。
私が入学したのは、昭和35年で担任は I 先生、松・竹組の2クラス約90名だったと記憶している。
入学して最初の試練は一年生の「学芸会」で訪れた。「学芸会」は衣装作りなど父兄一丸となった手作りの学校行事であった。演目は「笠地蔵」?で私の役は「地蔵役」。母親に準備してもらったシーツをまとい動きなし、もちろんセリフもなし。「こんな無口な時代があったんだぞ」と妻に写真を見せるも信じて貰えず残念!
早くも第二の試練は翌年訪れた算数の授業「九九」である。学校から帰ると自宅前にある花山寺さん境内等でよく遊んでいた、勉強した記憶があまりない。初午祭(二月)の頃に8の段で苦戦していた頃を思い出す。勉強について寛大だった親に感謝?
第三の試練は六年生で訪れた。唯一音楽が苦手であった私に「鼓笛隊」で大太鼓が任される事となった。練習が嫌で放課後講堂で遊んでいると校内放送で呼出されたことも。にも関わらず運動会・氏郷まつり等での行進が出来た。根気よく指導して頂いた高波瀬先生に感謝!
楽しい思い出も一杯、唯一の楽しみが学校給食、調理室が確か音楽教室の前にあり、S さん達の作る味は格別。「脱脂粉乳」最後の世代か!
その他、遠足・巡回映画鑑賞(特に忠犬ハチ公)・放送部活動などが思い出される。
私達が生まれた年(昭和28年)にテレビ放送が始まり、小学校入学の時(昭和35年)にはカラー放送開始、そして第三小の創立百周年(平成23年)には「地デジ完全移行」へと大きく変わります。
今後も第三小に永遠の進化発展を!
2011年3月13日日曜日
2011年3月9日水曜日
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