松阪市立第三小学校は、平成23年(2011年)に創立百周年を迎えます。 私たちは、この記念すべき年に記念事業を行うべく実行委員会を立ち上げ、記念式典及び記念誌編纂を企画し、実行します。
2011年7月11日月曜日
2011年7月8日金曜日
第11回 記念誌、事業部会より
7月5日(火) 第11回 記念誌、事業部会より
報告事項
①来賓への第一次案内を5月下旬に発送した。
②航空写真を7月8日(金)に撮る。
③横断幕を校舎に設置、幟旗を20旗購入した。
④ポスターやビラを作成する予定です。
⑤実行委員用のTシャツを作成する予定です。
協議事項
①記念式典の進行について
・おおまかに開会式、学年部発表、殿中ブラスバンド発表、スライドショー、閉会式
②イベント
・地域からの出店ブース(約10店)
・実行委員会のブース…うどん・ぜんざい、さかなつかみ、餅なげ
③記念誌のゲラ刷りの校正
・各年代にわかれて校正
報告事項
①来賓への第一次案内を5月下旬に発送した。
②航空写真を7月8日(金)に撮る。
③横断幕を校舎に設置、幟旗を20旗購入した。
④ポスターやビラを作成する予定です。
⑤実行委員用のTシャツを作成する予定です。
協議事項
①記念式典の進行について
・おおまかに開会式、学年部発表、殿中ブラスバンド発表、スライドショー、閉会式
②イベント
・地域からの出店ブース(約10店)
・実行委員会のブース…うどん・ぜんざい、さかなつかみ、餅なげ
③記念誌のゲラ刷りの校正
・各年代にわかれて校正
2011年5月24日火曜日
第一次案内を発送
5月23日から25日にかけて、ご来賓の皆様に百周年記念式典の第一次案内を発送しました。
また、山中光茂市長、小林壽一教育長、名越信太郎橋西連合自治会長には、西川実行委員長と
学校長が直接お会いして第一次案内を手渡しました。
また、山中光茂市長、小林壽一教育長、名越信太郎橋西連合自治会長には、西川実行委員長と
学校長が直接お会いして第一次案内を手渡しました。
2011年5月17日火曜日
2011年4月25日月曜日
卒業生からの投稿紹介4
卒業生 Mさんからの東京オリンピックの思い出に関する投稿を紹介させていただきます。
「東京オリンピックの思い出」
この度、創立百周年記念誌発行に伴い「東京オリンピックの思い出」をテーマに原稿執筆の依頼をいただき、私が第三小学校を巣立ったのは、昭和四十年三月当時の私にはオリンピックがどう映っていたのかと、卒業文集を久しぶりに開いてみました。
「柔道でヘーシンクが勝ったのは体力の差だろう」―。文集の「東京オリンピック」と題した十一人の級友と語り合うコーナーで、六年生の私はこう発言しています。この一節を読み、白黒テレビの最前列を陣取って、試合の行方に一喜一憂したことが、走馬灯のようによみがえりました。
アントン・ヘーシンクは無差別級で金メダルをとったオランダの柔道家です。少年の私は、柔道の金メダルは日本がとるものと信じて、テレビに向かって声援を送っていました。が、まさかの敗退。
日本人との体格の違いに悔しさを感じるとともに、世界は広いと憧れのような気持ちを抱いたことも覚えています。
よぉし、僕も―と、友達と一緒になって校庭の鉄棒で、体操競技の着地の決めポーズを何度も真似たことも鮮明に思い出しました。
文集には、東京でのオリンピックを「もう一度ぐらいぼくが生きている間にくればいいんだ」とも記しています。私だけでなく、一緒に応援した友に大きな夢や希望を与えてくれたオリンピック。再び日本で開催されれば、当時の私が抱いた夢を多くの子どもたちに与えてくれるに違いありません。
今後とも第三小学校は地域のシンボルとして、学校と地域の絆を確かめ合いながら新たな百年に向けた礎を築いていただきたいと願っています。
「東京オリンピックの思い出」
この度、創立百周年記念誌発行に伴い「東京オリンピックの思い出」をテーマに原稿執筆の依頼をいただき、私が第三小学校を巣立ったのは、昭和四十年三月当時の私にはオリンピックがどう映っていたのかと、卒業文集を久しぶりに開いてみました。
「柔道でヘーシンクが勝ったのは体力の差だろう」―。文集の「東京オリンピック」と題した十一人の級友と語り合うコーナーで、六年生の私はこう発言しています。この一節を読み、白黒テレビの最前列を陣取って、試合の行方に一喜一憂したことが、走馬灯のようによみがえりました。
アントン・ヘーシンクは無差別級で金メダルをとったオランダの柔道家です。少年の私は、柔道の金メダルは日本がとるものと信じて、テレビに向かって声援を送っていました。が、まさかの敗退。
日本人との体格の違いに悔しさを感じるとともに、世界は広いと憧れのような気持ちを抱いたことも覚えています。
よぉし、僕も―と、友達と一緒になって校庭の鉄棒で、体操競技の着地の決めポーズを何度も真似たことも鮮明に思い出しました。
文集には、東京でのオリンピックを「もう一度ぐらいぼくが生きている間にくればいいんだ」とも記しています。私だけでなく、一緒に応援した友に大きな夢や希望を与えてくれたオリンピック。再び日本で開催されれば、当時の私が抱いた夢を多くの子どもたちに与えてくれるに違いありません。
今後とも第三小学校は地域のシンボルとして、学校と地域の絆を確かめ合いながら新たな百年に向けた礎を築いていただきたいと願っています。
卒業生からの投稿紹介3
卒業生 Yさんからの大阪万博の思い出に関する投稿を紹介させていただきます。
昭和の一大イベントでしたね(^^)
「大阪万博の思い出」
「エキスポ'70」それは初めて聞く言葉だった。
あちこちで、桜を型取ったシンボルマークを目にするようになり、いたる所で♪こんにちはぁ~こんにちはぁ~♪と三波春夫が歌う声が響いていた。
ちょうど5年生だった私は、幸運なことに「社会見学」の行事に乗っかり、万博会場へと向かうことができた。
「アメリカ館」「ソ連館」などの人気パビリオンは、どこも長蛇の列で入れずじまい。
どうにか「オーストラリア館」にたどりつくことができた。展示内容などは全く覚えていないが、閉園後、四日市市市内に常設されると聞いたときは少々がっかりしたものだ。そんな私が一番期待していたのは「動く舗道」であった。マンガの中の未来都市に夢膨らませていた私は、どうしても「動く舗道」を体験してみたいと思っていた。恐る恐る踏み出した第一歩は、思い切りよろけてあえなく終了。
次は「太陽の塔」。奇抜なデザインと色鮮やかさに感動するも、数日後、「太陽の塔」に、何者かが籠城し大事件となった。たまたま、その時期に会場へ行った父が撮影してきた写真には、犯人の姿がはっきり写っており何枚もの写真が我が家に残されていた。
そんなこんなで、「万博の思い出」といえば「太陽の塔籠城事件」となったのである。
昭和の一大イベントでしたね(^^)
「大阪万博の思い出」
「エキスポ'70」それは初めて聞く言葉だった。
あちこちで、桜を型取ったシンボルマークを目にするようになり、いたる所で♪こんにちはぁ~こんにちはぁ~♪と三波春夫が歌う声が響いていた。
ちょうど5年生だった私は、幸運なことに「社会見学」の行事に乗っかり、万博会場へと向かうことができた。
「アメリカ館」「ソ連館」などの人気パビリオンは、どこも長蛇の列で入れずじまい。
どうにか「オーストラリア館」にたどりつくことができた。展示内容などは全く覚えていないが、閉園後、四日市市市内に常設されると聞いたときは少々がっかりしたものだ。そんな私が一番期待していたのは「動く舗道」であった。マンガの中の未来都市に夢膨らませていた私は、どうしても「動く舗道」を体験してみたいと思っていた。恐る恐る踏み出した第一歩は、思い切りよろけてあえなく終了。
次は「太陽の塔」。奇抜なデザインと色鮮やかさに感動するも、数日後、「太陽の塔」に、何者かが籠城し大事件となった。たまたま、その時期に会場へ行った父が撮影してきた写真には、犯人の姿がはっきり写っており何枚もの写真が我が家に残されていた。
そんなこんなで、「万博の思い出」といえば「太陽の塔籠城事件」となったのである。
2011年4月9日土曜日
卒業生からの投稿紹介2
記念誌編纂部会に寄せられた原稿を紹介させていただきます。
私も同年代(?)と思われ、全てに共感しました。
遊びの心
「今日は何して遊ぼかなぁ」、授業中も遊ぶことばかり考え過ごした小学生時代が懐かしい。
当時はゲーム機やパソコンなどは無く、携帯電話に至っては、特撮SF番組のヒーローが持つ通信機そのものであり、子供心に憧れた空想世界の代物であった。
そんな時代、学校から帰るとすぐに外へ飛び出して、同級生や近所の子供たちと一緒に田んぼや空き地、川や池、長屋の通路などあらゆる場所を遊び場にして日が暮れるまで夢中に遊んだ。
定番のかくれんぼから鬼ごっこ、缶蹴りや草野球などはもちろん、網を持って蝶やトンボを追いかけ、川に入って魚を捕り、空き地で土山や落とし穴を作り、雨が降れば泥遊びをする、とにかく与えられた環境の中、思いつくまま自分たちの出来ることをして遊んだ。
時にはいたずらをして苦手な近所のお婆さんに怒られることもあったが、とにかく何をしても楽しくてしようがなかった。
世の中全体が経済的に決して豊かと言える時代ではなかったが、子供達の遊びの心はとても豊かであり、今になって思うと遊び仲間で形成された子供社会の中で規律や道徳などについて学ぶことも数多くあった。
そんな時代に育ったのは幸せなことであり、当時培われた遊びの心は自分の財産として今なおライフスタイルのベースとなっており、日々その心を大切にして過ごしている。
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